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落ち込むためのエネルギー

弁護士であっても人の子。私自身も精神的に落ち込みそうになることがある。鬱を疑似体験でもしているのかなとも感じたりすることもないではない。
客観的にみて落ち込んでも仕方ないような事情は日々たくさん発生する。「前向きに生きよう」「希望を持ちなさいよ」と依頼者や被告人を励ましつつ,実は人生なんていいことばかりじゃないなということを,当の励ます相手以上に,身をもって感じている自分を発見したりする。
しかし,幸いにして完全に落ち込むまでには至らない。それは,多分,「落ち込みそうになること」と「落ち込むこと」との間に,相当な懸隔があることを自覚していて,かつ,その懸隔を埋めるためには,相当なエネルギーが必要だと思っているからである。
物理的落下についていえば,高い所からポンと身を投げ出せばエネルギーを要せずに自由落下するのだから,そのアナロジーで,心理的落下についてもボーっとしていれば簡単に落ち込めそうに思うかもしれないが,実際はそうではない。物理的落下は地球が引力というエネルギーを貸してくれるからそうなるのであって,エネルギーを要しないというわけではない。心理的落下については,外部に(地球の引力のような)エネルギー源があるわけではないのだから,落ち込むためにその人自身がそのエネルギーを自家供給しなければならない。
一般に,実際の落ち込み体験を思い出してみてもエネルギーを消費したという実感は見当たらないものだから,人は,落ち込むことが無気力な時間の空費,無為だと同義だと思いがちである。しかし,無為無気力は,落ち込みの原因というよりも結果という要素が強い。それらが悪循環になっていることはありうるので前者が後者の原因であるという関係が存在する可能性は否定できないが,その場合は直接の因果ではなく,無為に過ごしていることへの自責,自己嫌悪という別の要素が介在している。すなわち無為そのものが人の気分を左右するのではなく,そうした状況への自覚に基づいてマイナスの自己評価というエネルギーが発生し,それが気分の中へ投入されて人を落ち込ませるのではなかろうか。
落ち込みを防止するには,何もがんばる必要はないような気がする。単にエネルギーの供給源を絶てばいいのではないか。
無為な自分を責めること。
希望がないとため息を吐くこと。
辛いことばかりだと慨嘆すること。
わざわざそんなことをして後ろ向きエネルギーを生み出すことはない。
そう思って,無為なら無為で何が悪いと言い募り,アルコール漬けの頭脳であっても一日一日を精一杯生きることこそが希望そのものだと開き直り,生来の怠け者の私は,結局落ち込むことすら面倒臭がっている。
もしかしたら,これこそは省エネ式のプラス思考なのかもしれないと思う。
私は,最近,こんなふうに,プラス思考のネタが,意外なところに転がっているような気がしているのである。