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手段としての評価

人間にとって「評価される」ことは不可避である。生まれた瞬間から,「可愛い赤ん坊」だとか「元気な声で泣く」だとか「お父さんそっくり」だとか,いきなり評価の嵐に見舞われる。幸いその時代には他人様のいっている言葉は理解できないから評価を気にしないで生きていくことができるが,それも生後数年間だけの特権である。物心つけば他人の評価が理解できるようになり,それが気になりだす。人生で評価を気にしないで生きていられるのは物心つく以前だけということである。
「評価」が社会において,ひいて人の一生にとってとても大切なものであることはいうまでもない。会社や学校での成績は人生を左右するし,コミュニティ内での評価は日常生活に大きく影響する。評価するという作用はシビアなもので,それは最終的に選別ということにまで行き着く。学校受験の合否しかり,出世栄達しかり,友達の選択しかり,恋人伴侶の選択しかりである。成績評価ということでいえば,それは早くも小学校低学年から始まる。
この評価というヤツが曲者で,時として,人生の目的のように思えてしまうことがある。
もともと人間というものは褒められるのを心地よく感じ,けなされることを不愉快に思う生き物だが,そこまでは単純な感覚の問題。それを超えて評価を人生の目的と見誤ってしまうとき,低い評価を受けることがそのまま過度のマイナス思考の原因となることがある。
今,「評価を人生の目的と見誤ってしまう」という表現を用いたが,それには,評価は人生の目的ではないという主張を含んでいる。ただ,そのことは,たとえば社会から高い評価を受けることを人生の最大の目標とする人がいたとしても,それまでを否定しようとする趣旨ではない。というのは,人生観の問題としていうなら,現代社会は「価値相対主義」といって,一人一人の価値観は自分で決めるもので他人から押し付けられるものではないという建前なので,何を第一義的価値と見るかということは人それぞれの問題だからである。そこで,社会から高い評価を受けることを人生の最大の目標とする人がいたとしても,そのことを他人がとやかくいうことはできない道理である。評価が人生の目的であってはならない,などと言うつもりはない。どうぞお好きにと思うだけである。
私が強調しておきたいのは,評価されることが人生で不可避だということとそれが人生で最大の価値だということと,この二つのことがらがまったく別個の問題だということは明確に意識しておくべきだということである。社会生活の中にあって不可避的な事象である「評価」は,人間関係の構築や役割分担,さらにはその地位や収入までを左右するとはいえ,たかだか技術的,手段的ファクターにすぎない。これに対し,「評価」を人生の目的とする場合には,それは価値的・目的的ファクターとなる。ともすると,人はこれらを無意識的に混同してしまいがちである。そうやって誤認してしまう結果として,無用な挫折感や,ひいて「評価への恐れ」,「評価からの逃避」にまで至ってしまうことになるのではないか。
評価は,実は,すぐれて技術的範疇に属する問題である。評価というものにどう対処していくかということは,プラス思考の技術論としてはかなり重要な意味をもつように思われる。
それは,評価を手段にすぎないと明確に位置づけることによって,それが「何のためになされるか」,「誰のためになされるか」「どういう基準でなされるか」といったことを意識することができ,これによって自分に下される評価というものをある程度冷静に突き放して考えることができるからである。
とりわけ,評価が誰のためになされるものであるかという観点は重要であろう。それが自分(被評価者)のためになされるものであるならば,それを最大限気にすべきだということになる。もしもそれが評価する側(評価者)のためになされるものであるならば,その目的や性質を考慮してどの程度気にするかをじっくり見極めるべきだということになろう。そして,それができるようになると,評価を利用するという観点が出てくる。「なんとかとハサミは使いよう」というが,「評価」というものもまた,使い方次第で,気分や生き方にとってプラスにもマイナスにも作用する。つまり評価にうまく対処することで無用なマイナス思考をさけ,さらにはそれを踏み台にして自分を高めるということができるようになる。
次回はその問題をもう少し具体的に掘り下げてみようと思っている。