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評価は本体にあらず

評価に向かってどう対処していくか,これはプラス思考技術論にとってはかなり重要な意味を持つと思われる。
それは,自分が評価される側となる,つまり評価の客体となる場合についてもあてはまるし,評価する主体となる場合についてもあてはまる。もっとも,評価には,自己評価という特殊な分野がある。通常の評価(「自己評価以外の評価」の意味。以下同じ)では評価の主体と客体が分離しているが,自己評価にあってはそれが合致する。自己評価は通常の評価以上に人間の感情に深く微妙な影響を与える点があるように思われるので別個に検討すべきであろうから,ここでは,自己評価の問題は棚上げし,通常の評価のみを取り扱うこととする。
評価の問題をプラス思考技術論として検討する前提として,最初に押さえておかなければならない事柄がある。それは,人に対する評価というものは,本体そのものや本質とは違うということである。
人間の人間に対する評価には,本来的に本体・本質を正確に把握できない面がある。それはなぜかというと,評価の客体たる人間の本体・本質が,性格にせよ,能力にせよ,思想にせよ,もともと複雑な要素の絡み合いによって成り立っているのに対し,評価するための素材は,その人の行動という外部に現れた現象に限定されているからである。
しかも,時間軸という問題もある。人間は変化するのである。
たとえば富士山という立体を遠くのある一地点で捕えて撮影したとする。青空を背景にし,山頂近くに冠雪した美しい景色。だが,富士山の姿はそれだけではない。時に人を寄せ付けない吹雪の荒々しい日もあろう。カメラが接近すればゴミだらけのみすぼらしい場所もあろう。また外からいくらカメラを向けても(今のところは)活火山という本質をフィルムに収めることはできないであろう。
そのことは比較的理解しやすいことなので,富士山の写真が富士山の本体であると思う人はいない。
人間に対して外から光をあてて眺めてみる場合も同様で,実は外部からの観察で本体を簡単に映し出すことはできない。
人間にとって,ある日の気分と別の日の気分とが同じとは限らない。日によって違う側面が出るということは当然にありうることである。また,人間が,容易に行動に現出しない欠点を内包している可能性は常に否定できない。心の中のことで半永久的に表に出てこない側面があるのかないのか,第三者からは計り知れない。知るすべもない。
評価は人間の本体・本質そのものではない。その一部分の投影図にほかならない。評価は二次元,人間の本体は三次元。それらがそう簡単に合致するものではない。
加えて,人間は大きく変化する。むろん「諸行無常」は真実であるから,人間だけでなく富士山も変化はするが,その変化の速度は人間ほどではない。人間は,成長したり退行したり,一生の間に,不断に,かつ大きく変化する。つまり,昨日下した評価が仮に正確であったとしても,今日もそれが妥当するという保証はない。
時間軸による変動という問題も考慮するなら,人間の本体というものはいわば四次元の世界にある。評価において正確性を期すことの困難性はさらに大きい。
それなのに,評価と本質を見誤りがちということはないだろうか。写真が被写体の本質とは違うことは簡単にわかるのに,ついつい評価と本質を混同していないだろうか。(たとえば,血液型性格論はどんな論理構成をとっているだろうか?この問題はまた別項で検討する。)
人の評価というものを考える場合,評価と本体・本質とを誤認混同してはならない。評価は常に立体を一面的に,それも外部から,過去時制で得られた情報を元に見ているに過ぎない。まずそのことを念頭に置くべきであろう。