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「評価」の正確さより「評価」の正当な意義付けを(1)

人間にとって,評価され,ランク付けされることは,とりわけ高くない評点を受ける場合にはマイナスの感情を生み出す要因であるが,これを克服する思考技術は,「評価を正確にさせる」ように努めることではないと思われる。今回と次回はそのことを論じてみたい。
前回,人間に対する正確な評価は原理的に容易なものではないという趣旨の話をした。また,前々回,評価が手段であることを論じる中で,人間を評価することは社会生活上必要不可欠なものだということを示唆した。
後者の観点から,評価のものさしの有用性は否定すべくもない。それも,できるかぎり正確で使いやすいものさしが必要である。
たとえば偏差値というものがある。
偏差値という用語自体,よく知られている。学校は今や偏差値全盛の時代。思い起こせば,私が小学生のころ,偏差値の有用性が喧伝され始めていたような気がする。
偏差値というものは,学校の成績や知能指数などを測る場合におけるかなり合理的な評価システムであり,わかりやすくて正確,しかも公平なランク付けを可能としている。
ところが,世の中では,偏差値というと点数主義そのもののようにイメージされ,あたかも教育における知識偏重の代名詞のようにして槍玉にあげられる傾向がある。偏差値教育・偏差値主義こそが豊かな心の養育の反対要因であり,偏差値というものが採用されているがゆえに子供たちの情操教育が阻害されてきたかのように。
しかし,論理的にいうかぎり,偏差値に対するこのような批判は,的外れだろう。それ自体は数学的・統計学的なシステムにすぎず,価値的には中立・無色透明な代物である。問題とされるべきは,点数によるランク付けだけを人間の序列の基準としようとしてきた態度そのもののほうであり,ランク付けのために有用なものさしのほうを非難するのは,いわば冤罪の類いというべきであろう。「偏差値」君にしてみれば,「なぜ僕が悪く言われるの?」と悲しくなるだろう。自分はひたすら正確な基準を提供しているだけなのにと。
この「偏差値」君の置かれた気の毒な立場は,人間の評価というものに対する見方を考えていく上でとても象徴的であり,示唆に富んでいるように思う。
上記のような偏差値主義への批判は,ペーパー試験での結果というような,ある一つの側面だけからのチェックによって,人間そのものに対する評価が尽きるものではないということ,成績だけがすべてを現すものではないという,それ自体正しい認識を前提にしている。それであるならそのような論理構成で「成績至上主義」として考え方の原理そのものが批判されればよさそうなものなのに,成績比較のための用具のほうに罪がかぶせられて「偏差値主義」批判が展開されてきたのは,実は,「正確な評価」ということに対して人々が認めている価値が限定的なものだからではないのか。
もしも正面切って「あなたは正確な評価の尺度の必要性を認めないのですか」と問われれば,大多数の人が「認めます」と答えるだろう。なぜなら,公平で人々がその能力を発揮できる社会を作るには人間に対する正確な評価の尺度が必要であることは見易い道理だから。だが,「偏差値」という尺度は人々の深層心理においては擁護されず,かえって憎しみの対象となる。(余談だが,「偏差値」という名称も不当な取り扱いの一因かもしれない。なにしろ偏見の偏,差別の差,値踏みの値,の合成なのだから。)
ここには,偏差値によって他者と区別され,ランク付けされるという作用そのもの,あるいはその結果として受けた評価に対する苛立ちとでもいうべきものが観取される。つまり,いかに公平で正確なものさしであろうが,それが自分(やその子弟など近親者)に対して不利益に作用するなら,人はそれを良いアイテムと思うことはできない。
人間というものは,もともと「正確な評価を受けたい」というより,「(正確でなくともいいから)高い評価を受けたい」という心理をもっている。それが正確さを志向する評価のためのものさしへの八つ当たりの遠因ではないかと思うのである。
プラス思考を称揚する立場からいえば,このような心理を否定的に見る必要は少しもないと思われる。それをうまく利用し,前向き人生の組み立てのために役割を果たさせようとする態度こそが合理的であろう。
そこで,評価というものが自分たちにとって何なのか,一度冷静に見つめ直してみよう。