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米と魚

私は新潟市出身で,高校卒業までの大半を同市内で過ごしたが,小学校4年から6年までの間は,父の勤務の関係で山形県鶴岡市に住んでいた。
中学校(新潟市内)時代の同級生のメーリングリストがあり,最近,その中に,「子どものころから毎年のように父と山形県の善宝寺にお参りに行っていた」という投稿があった。その家のなりわいは魚屋(卸)だったのでピンときた。善宝寺といえば魚をお祭りしていたはずだ。魚の命と引き換えに一家の生活基盤を支える店主として,魚への供養の思いと家業の繁栄を願ってのことだったろうと。
私自身,五重の塔にお参りした遠い記憶がある。鶴岡からのアクセスは電車だったはずだ。曹洞宗の名刹,善宝寺。
さっそくネットで調べてみた。公式サイトのトップには,「龍澤山善寳寺は海の守護・龍神様のお寺として北海道,東北,北陸をはじめ全国に多くの信者を有し,特に漁業関係者より絶大な信頼を頂いている大祈祷道場です」とある。庄内交通湯野浜線善宝寺駅は,昭和50年4月1日に廃止されたとも。
同じサイトの記事によれば,「明治時代に入って,漁業関係者の発願による我が国唯一の魚鱗一切の供養の五重塔が建立された」とある。私は,一度,このお寺で,「ここの五重の塔には魚がお祭りされているので,ここへ来て魚に感謝しての(供養の)お参りをしないような人は,今後一生魚を食べてはいけない」というような趣旨の説教をされた覚えがあったのである。 かつて,正確な名称は忘れたが,豆記者講習会というようなものが,毎年一回,善宝寺で開かれていた。1泊2日の催しで,近隣市町村の小学校の新聞部の部員を集めた合宿のようなものだったと思う。私が小学校4年のときに転校して編入されたクラスの担任の先生が,学校新聞の指導では全国的にちょっと名を知られていた方で,私もその先生の目に止まって新聞班に加えられた。その講習会に行ったのは5年生になってからだという気がするが,その際に,寺のご住職か何かから,くだんの説教を聞かされたのだ。当時の私は肉類が好物で,「魚を食べてはいけない」という「警告」はさして応えなかったけれど,それでも念のため翌朝にお参りはしておいた。酒飲みになって魚介類こそが何よりの好物になった今になってみれば,お参りしておいて本当によかったというのが実感だ。
私にとって,親元を離れて宿泊するというのは,その豆記者講習会が初めての体験だった。準備万端,勇躍,湯野浜線の電車に乗り込み,友達とわいわい言いながら善宝寺へ向かった。
その新聞班の班員たち全員の手荷物の中には,米が潜んでいた。各自が米を指定量持参しなさい,という事前の指示があったからである。夕食と朝食分だから,数百グラムだっただろうか。
当時私は「お寺だから米持参なのだろうか」などと漠然と思っていたが,そうではなかった。最近の若い人は知らないであろう。かつて存在していた食糧管理法(食管法)の影響である。
戦時下,戦争遂行の目的で制定された食管法は,主要食糧の流通を国家の統制下に置いていた。戦争末期我が国は食糧難の時代だったが,それは終戦後も直ちには解消しなかった。「米穀手帳」というものが配られていて,米は,国民に対して「配給」されていたのである。別の政治的意味合いもあって,食管法の統制自体はその後も長く続き,ようやくその法律が廃止されるのに,実に平成7年まで待つことになる(配給制の廃止は昭和56年)。昭和は,食糧統制の時代でもあり,家族に対して生きていくためのぎりぎりの栄養を提供することを主眼に食卓が形成されていた年代があった。修学旅行に行くのに子どもたちが米を持参していたというのは,そうしたころの世相を反映する風景のひとつであったろう。
そうした光景を見ることができたのは,このころが最後だったのではなかろうか。私の中に,ビニル袋で持参した米を宿泊先の大きな入れ物のなかにザーッとあけたという思い出は,善宝寺においてしか存在しない。また,ネットサーフィンして人のブログなどを読むと,昭和40年ころまではそうしたことがあったというような記事が散見できる。
東京オリンピックが済んで,日本はちょうど高度成長期を迎えつつあり,食糧難の時代は完全に終焉しようとしていた。
他方で人々は,敬虔にも食用とした魚への供養を忘れることなく,寺に参詣して豊漁を願い続けてきた。
功の多少を計り,彼(か)の来処を量る(「目の前にある料理ができるまでにかけられたたくさんの人々の手間を思い,食べ物の材料がどこから恵まれて来たものかを考える」。禅の言葉「五観の偈(ごかんのげ)」の一)。
食糧難からの脱却と食べ続けられることへの感謝や自然への畏敬の念。振り返ってみると,私の人生で,それらのことが善宝寺において交錯していたようである。