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1個のアンパン

私の通っていた高校では,毎年6月に体育祭が開かれていた。当時のことでいうと,各学年が1組から10組まであり,縦割りで,1年から3年の各1組が1(組)連合を形成,以下10(組)連合までの10チームの対抗形式。コンペティションが3部門あった。一つは体育競技,一つは組まれたやぐらのうえで展開される5分間のパネル応援,もう一つはグラウンドいっぱいを使って繰り広げられ,ストーリー性のあるパフォーマンスを展開する10分間応援である。

その名も「青陵祭」は,近隣や他校からの入場者もある一大イベントである。

そのための準備の期間が楽しみ。早朝,起こされもしないのに自ら目を覚まして家を出る背中に投げられる「こういうときばっかり早起きして」との母親達の皮肉をかわした生徒達が,校門をくぐって陸続と集まって来る。初夏だというのに,日の出までまだ間がある。大道具やら小道具やら振り付け練習やら声だしの特訓やら炊き出しやら,連日早朝から,そして夜遅くまで,全校生総入れ込みでその準備にいそしむ。

その各コンペの商品がアンパンと決まっていた。3部門それぞれについて,連合に所属する者全員に対し,1位なら3個,2位なら2個,3位なら1個のアンパンが配られる。完全制覇すると,9個というわけだ(その場合,特別ボーナスがついて10個だったような気もする)。むろん,3部門で3位以内に入らなければ1個ももらえない。たかがアンパンではあるが,労苦の報いであるから,特別な意味合いがある。誰しもその勲章を追い求める。求める度合いは準備への入れ込みの程度に比例していただろう。

全体では年間18個。つまり,3年間で5個くらいもらえればまずまず平均値ということだが,上位優遇下位冷遇のシステムだからどうしたって偏る。3年間ゼロという生徒も少なくなかったはずだ。

私はといえば,1年のときも2年のときも1個ももらえなかった。

それが,3年のときに,漸く,どの種目だったかは忘れたが,私の所属していた10連合がぎりぎりで3位に入り,待望のアンパン1個が配給されることになった。

代休を挟んで2日後,多分放課後だったと思う。「来たぞ来たぞ」の声とともにキャリーケースに入れられたパンが運ばれてきて,さっそく配られ始めた。

その時のことである。

私は教室の後ろのほうで友人と談笑していたのだが,配給係も私の親しい友人の一人で,教室の前のほうから,「おう,伊藤,行くぞ」というや否や,いきなり直球で投げてよこしたのである。「えっ!何するん?」と考える間もなく,私は反射的に手を伸ばした。

アンパンは,私の左手に見事に納まった。教室内,いっせいに拍手の嵐。

食べ物を粗末にする行為,といえばそのとおりなのかもしれない。ちょっとした笑いや注目のためなら悪ふざけをいとわない高校生の行動ではある。ともあれ,3年間唯一のアンパンを失うかもしれないという一瞬の個人的危機は去った。

キャッチングの衝撃でやや変形したパンは,しかし皮も餡も甘やかに,得も言われぬ味わいだった。間違いなく,生涯で最もうまいアンパンだった。

考えてみれば,アンパンが賞品というのはユニークだ。そういうことが始まったのはいつころからのことなのだろう。

戦争から間もないころ,プロ野球のオールスター戦でのMVP(最高殊勲選手)の賞品が,豚1頭だったことがあるという。食べ物が何よりも貴重だった時代があった。アンパンが私の出身校の体育祭の賞品となったのも,そういった時代背景を映していたのかもしれない。

前回「米と魚」の際にも触れたが,私がアンパンの直球を受け取ったころは,すでに食料不足の時代を何年も過ぎていた。まだ飽食と呼ばれる時代ではなかったが,もしかすると,その萌芽があったかもしれない。

青陵祭そのものはむろんのこと,アンパン賞品制度も,ルールこそ多少変化しているようだが今も続いているらしい。

「飽食」という在り方は無論行き過ぎで修正を要するとは思うけれど,欠食の時代よりもずっとましであることは間違いない。その背景に「平和」がある。

平和が続き,後輩たちにとって,アンパンが体育祭の賞品として大きな主観的価値があるという伝統,そしてときによってはちょっとだけ行き過ぎた悪ふざけを許す土壌が,ずっと残って行ってほしいと願っている。