ホーム > コラム > The inside of a lawyer > 伊藤秀夫 > 04 複合性の見えざる危機に弁護士としてどう立ち向かうか(2)

複合性の見えざる危機に弁護士としてどう立ち向かうか(2)

――相馬市訪問の感想――

4月9日,先週に続いて福島県を訪問。今回の最終目的地は相馬市であった。前回のいわき市は原発(福島第一原子力発電所・通称「1F」)の南側,市の一部が30キロ圏内にかかる位置にあるのに対し,相馬市は北側にあり,30キロ圏内にはかからない。いわき市の人口約35万に対し,相馬市の人口は約5万。そのさらに南には南相馬市があり,こちらは人口約7万。地図で見るとざっと5分の1くらいが20キロ圏内,5分の2くらいが20キロ超,30キロ圏内,残りは30キロ圏外というところか。市役所は30キロ圏内に所在する。

午前中の福島県弁護士会との連絡会が熱心な討議のために思いのほか時間を要し,相馬市に到着した時には2時半を回っていた。道に迷ったりもしたので,2か所の避難所(「相馬東高校」と福祉センター「はまなす館」)を回った時点で5時半近くになっていた。新潟へ戻る時間を考慮して避難所訪問を打ち切り,帰路の車上,運転していた後輩弁護士が,「磯部地区を見てきますか」と水を向けてきた。

正直をいうと,現地へ行く以前には,津波に遭った場所を見て回ることについて,これを憚る気持ちがあった。何人もの人が貴重な命を失った場所。被災者の多くが家族や思い出を失った場所。そこを部外者である自分が見に行くことは,祈りの地を好奇の対象とするにも似た,不謹慎さを伴うような気がしていたからである。

だが,そのときには,私も,磯部地区を見なくてはならないと,覚悟を決めていた。「行ってみようか。」

それというのは,最後に立ち寄った避難所(はまなす館)で話を聞かせてもらった被災者の多くが磯部地区から来ている人,それも大半は津波で家を失った人たちだったのだが,私たちが法律相談案内のパンフレットを配った際の反応に,ある種の投げやりさを感じていたからだ。この避難所には,4月8日午後5時現在で約460名が収容されていて,相馬市内では相馬東高校の約560名に次ぐのだが,後者は市外からの避難所,前者は市内からの避難所と区分けされていた。必然的に,といっていいだろうが,相馬東高校への避難者の多くが原発の避難指示,屋内退避に由来する避難行動であるのに対し,はまなす館のそれは,住むところがない(あっても住むのに適しない状態になっている)という人たちだった。そのはまなす館で出会った人たちは,新潟から赴いた私たちに対して,「遠路ありがとうございます」と感謝やねぎらいの言葉をかけてはくれるのだが,「法律相談と言われてもまだそれどころじゃない」という反応ばかりなのだった。

「先行きがみえない」「(国は救済策を)早く決めてほしい」「若い人の仕事がない。1か月も避難所でぶらぶらしているだけでかわいそうだ」「今は何も考えられない」「親戚が4人行方不明になり,まだ2人見つからない(2人は遺体で見つかったという意味である)」「300万円じゃ土地も買えない」……。私の手元メモに残る聞き取り内容は,被災者の黒い絶望感で縁どられている。

ある老人は,憮然とした表情を変えないまま首を振ってビラを受け取らなかった。

それゆえ,津波の被害に遭った個所に行きませんかと後輩に打診されたときまでに,私は,こうした被災者達の思いを肌で感じるためには,この目で災禍の爪痕をしっかり見てくることが必要だと,考えをあらためていたのである。

海から2キロほどであっただろうか。海岸線に平行する道路の両脇は,ある場所から突如風景を一変させた。田んぼだったらしい場所が一面泥に覆われている。家よりも大きな船が民家や電柱にぶつかって止まっている。あちらこちらに船底を上にして転がっている漁船多数。電柱はなぎ倒され,あるものは二つに折れている。長く風雪に耐えてきた巨木が根っこを見せて無残な骸を曝している。海側はるかに1本の松だけが見えるが,あとは防風林が根こそぎすべて消えている。一面がれき。つい1か月前まで数多くの家々に電気を供給していたであろう電線が,道路近くまでたれさがって放置されている。その電線が果たすべき役割そのものが終焉してしまった。家という家が押し流され,しあわせな団欒が繰り返されてきた根城がすべて崩壊した。

テレビでも盛んに映し出された風景だが,360度に拡がる残骸で埋め尽くされた広大な平原の中に身を置き,たそがれ前の浜風を受けながら,もしも自分の家がかつてこの風景の中に存在していたならと想像してみたとき,被災者のずっしりと重い無力感が,あらためて私の心に反響した。

無料法律相談のビラを配る私の言葉かけを謝絶したとき,あの老人はこう言いたかったのではなかろうか。「あなたに親切にしていただいても,どうにもならないのですよ。あなたには私の本当の思いはわかりませんよ」と。もしかしたら,ありがたいといって拝むようにビラを受け取ってくれたおばあさんにも,そういう思いはあったのかもしれない。

被災者の悩みを聞きとること,被災者に寄りそってその思いに共鳴するということが,実は口で言うほど容易ではないということを,私はあらためて実感して帰って来たということになる。

新潟県内の避難所で法律相談を担当したとき,避難者夫婦との間の話が一段落した際に,奥さんが,「私,いつまでも避難暮らしを続けていて,そのことで地元の人たちに迷惑をかけているんじゃないかということが気になって仕方がないんですよ」と漏らし,ご主人もすぐに同意した。私は,思わず,「どうか,そんなことおっしゃらないでください。地元の人間で皆さんのことを迷惑だなんて思っている人は,一人もいませんよ」と言った。むろん,他の県民にアンケートを取って回ったというわけでもないが,そのときは,そういうふうに断言することが,価値的には間違いなく正しいことなのだと思った。

だが,支援されていることを申し訳ないと感じる被災者の気持ちというものは,被災者と支援者との間の「支援」という人間関係における,忘れてはならない要素なのだろう。しかも,申し訳ないという言葉に込めた被災者の気持ちの切実さは,多分支援者側の抱く支援したいという思いと同等の,あるいはもしかしたらそれ以上の重みや深みをもっている。

被災者を捉える底知れない数々の懊悩。希望の光を見ることのできない数多くの心。恩義を受けながらそれを返すことができないとの思いは,それが極限に至れば,自己の存在意義の否定にもつながりかねない。

見えざる危機は,ここにも顔をのぞかせている。

もしも被災者でもないあんたに何がわかると聞き返されたら,被災者でない私たちには,本当は返す言葉はないのかもしれない。だが,私は,それでもなお声を大にして前回の報告書で書いたことを繰り返したい。私たちは,被災者の中に私たちの側から入り込んで行って,積極的にその悩みに向き合うことで,見えざる危機を相手に,被災者と共闘していかなくてはならない。

そして,その活動を続けるに際しては,私たちは,被災者の深い悩みへの配慮を常に持ち続けなければならないと思う。

もしかすると,被災者に寄り添おうとすることは,それ自体,私たち弁護士自身にとっても,辛い作業になることもあるかもしれない。

被災者の辛い体験や絶望を聞き取り,返答として必ずしも明るい未来を直ちに提示することができるとは限らないし,しかも,それは,いつまで続くかわからない,私たちにとっても先の見えない事柄に関わっているからである。

だから,私たち自身が,被災者の心にある悩みに対するある種の畏れと,自分たち自身の心の強さをもってこの活動に臨まなければならないことも確かだろう。

だが,私は,この活動に臨もうとしている仲間たち,――とりわけということでいうなら後輩の弁護士諸君にということになるが,そのように限定する必要もなかろう――すべての仲間たちに言いたい。何もひるむことはない,被災者の元に駆けつけて行こうと。なぜなら,人は,希望をもたなければ生きていけない生き物であり,希望は,希望を持とうとする心を起点に,それを持ち続ける生き方によって踏み固められていくものなので,絶望に向き合う人たちに寄り添って希望を語りかけることは,それだけでも価値のある行為だからである。

笑顔のない人たちと過ごした長い時間を経て,私たちは帰途についた。家へ辿りついたのは前回よりは少し早く,午後11時前だった。放射線による身体への汚染を現実に心配したというわけではないが(相馬市の放射線量は,福島市のそれより低いそうである),これからのこともあるので私自身が同行者に課していたルールがあり,それを自分自身が順守しないのはいけないと思い,着ていたものをすべて洗濯機に放り込み,シャワーを浴びて「除染」をした後,風呂に浸かった。一日の疲労が心地よく癒される瞬間。

このような小さな幸せさえも奪われている人たちのことを思う。その思いは,居ても立ってもいられないという感覚につながる。

今,被災者を何とか支援したいという輪が拡がっている。支援,支える,助ける,寄り添うという言葉が飛び交っている。そのことが,被災者の絶望の気持ちに対して,ほんのわずかかもしれないが,希望の灯をともしていることは疑いない。私も,そうした暖かい言葉を,多くの人たちと同様に,自分の口の端にのぼらせ,自分の書く文章の中にちりばめたいと切実に思う。

たくさんの思いが,今,日本中,世界中の人たちを突き動かしている。それが,今のところは客観的には根拠薄弱な「希望」の,最大の,そして有力な要因に違いないと思うのである。